deam_dream’s diary

文を書く

海と毒薬

学生の頃、一番嫌われていた夏休みの宿題と言えば読書感想文であろう。

夏休みの宿題は遅れて出すタイプの生徒だった私は本選びからスタートしなくてはならないこの課題にひどく苦しめられていた覚えがある。

夏真っ盛りの今、もう一度その懐かしい苦しみを。




先日、池袋のジュンク堂で何となく遠藤周作『海と毒薬』を購入した。

この作品は田舎に越してきた「私」が風変わりな医師「勝呂」と出会い、その勝呂という人間が過去に巻き込まれたある事件を掘り下げていくという話だ。

当初自分は、自分だけではない、きっと他の人もそうだと思うが、タイトルから自然保護に観点を置くドキュメンタリーのような作品かと思っていた。しかし中身は全く違っていた。

では何が『海』なのだろうか、何が『毒薬』なのだろうか。

それは恐らく、思考を棄てた時に否応なしに動かされる流れ、うねりのようなものを海、そして戦争や、悪事が続くことによる感覚の麻痺、これを毒薬としているのだろう。

勝呂は戦争末期、医学生として第一外科に在籍しているとき、米軍捕虜の生体解剖をおこなうところに居合わせることとなる。それは紛れもなく恐ろしいことであるし、断れるのであったら誰しも断ると、我々はきっとそう思うだろう。

しかし、勝呂は断れたのに断らなかった。

同じような場面は他にもあった。看護師が容態が悪化した患者に医師に言われるがまま、ヒルダに止められるまで麻酔を打とうとしていた。

人を殺すということは日常にありふれることはない。今の日本では隣人が人を殺した経験を持つことなど想像できない。

しかし、戦時や戦後すぐでは周りを見てみると人を殺した経験を持つ人はいて、その人たちは普通に生きていた。みんな口々にいう、そういう時代だったと。

先程述べたが、看護師が患者を見殺しにしようとしたときに止めたのはヒルダ、西洋人であった。

勝呂の同期である戸田は自分を押し動かすもの、運命から自分を引き出すような存在、『神』はいるのかと勝呂に問う。

神を信じる存在である西洋人と、神を持たない日本人の対比である。

信じるものが、すがるものがないがゆえに押し流されるがままにその行動をおこしてしまった過去の日本人はおろかであったと、それだけで終わらせてしまってはいけない。

戦争は終わったがいつ大きな流れが来るかもわからない。詳しくは言わないが、この間首謀者や幹部の死刑が執行された、1995年に起きたオウム真理教のテロ行為もその一つである。

日本は今後も恐らく神を持たない国であると思う。だからと言ってこのままではだめだ、変わらなくてはならない、我々はもう一度自分を、自分が進んでいる道を考えなくてはならない。

海に囲まれている日本に生きているのだから、毒薬に抗い流されないようにしていきたい。



いつも通り尻切れである。何が伝えたいのかわからない読書感想文になってしまった。
8月中に15冊を読み、感想を記したいと思う。

それでは、また近いうちに。

カメラを止めるな!

※注 本記事は重大なネタバレを含むため、万が一この記事を読まれる方は注意されたし。


久々の投稿になる。
ずいぶん流れに遅れた気がするが、本日、上田慎一郎監督『カメラを止めるな!』を池袋シネマ・ロサにて鑑賞してきた。

この映画は冒頭35分程度の短編映画であるところの前半部分と残りの前半部分を受けての後半部分に分けられる。

適当な感想を述べると、


前半部分では何か気持ちの悪いほどの懸命さ、必死さが感じられた。

この気持ち悪さは体調が悪いだけかわからないが、紛れもなく気持ちが悪かった。

なにが気持ち悪いかと言われると難しい。

不自然な間は一発取りでは不可避であるし、本気の顔を撮りたいとする監督の発言が最序盤にあるため、暑苦しいほどの演技はそれを受けた題材のひとつであると感じてしまっていた。

強いて言うならシリアスな展開の中に無意味なタイミングでコメディ要素があること、登場人物の演技の質が映像の中で異なっていたこと、などであろうか。

それでもやはり、カットをおこなわないドラマとして、息を飲む展開が目まぐるしく起こる面白いB級ドラマであったと感じるにとどまってしまっていた。


しかしここから怒濤の後半部分が始まる。

後半部分はただただ楽しかった。

映画に疎いため例が微妙かもしれないが、前半部分を受けての後半の展開はシャーロック・ホームズの緋色の研究のような、謎解きの爽快感を覚えた。

前半部分の笑いどころをさらに大きな笑いどころにする手法にはかなり驚かされた。丁寧かつ衝撃的な前振りがされているゆえに、映画館全体を操るように笑いを起こしていた。

それに加え、低予算感が伝わるがゆえに、映画と言うより一つの演劇とそのメイキングを演劇にした感覚を受け、そこがまた、ウケやすさ、劇場の一体感を掻き立てていたように思える。

また、後半部分に登場するプロデューサー(?)の女性のカメラを通してのみの番組を見るというメタ的な視点を持つキャラクターは、ある種の前半部分を見た観客を思わせる部分があり、苦笑いさせられる部分があった。

そんな感じである。


全体で気になった点としては日暮の娘があげられる。彼女の存在は何を意味していたのだろうか。

彼女は映画に対する熱意を空回りさせていたが、その思いの強さは父親の作品への意識を変え、母親をもう一度女優をやらせ、詰んだように思えたトラブルに対して的確な対処をした。

その神のような所業は重たい課題を背負った他の登場人物と比べて明らかに軽やかすぎる。

また、細田の娘の写真を見た日暮が自分の娘の写真を見ながらワンカップを煽り、号泣するシーンは一見笑いどころでありながら最後の盛り上がりに繋がる重要なシーンであった。

明らかにやりすぎである。

劇中の台詞で、「子供は親を見て育つ」や、「かっこいい父親でいたい」のような発言があった。この映画は一つの変わったアプローチをする映画である一方で、『親と子』という主題があったように思える。神谷の「父親にもぶたれたことないのに」もガンダムのオマージュでありつつもその点も意識してるはずだ。

日暮や細田の行動を大槻ケンヂは有名な洋画『ロッキー』シリーズを踏襲してるようだとしていた。娘にカッコつけるために父親が頑張る、ハリウッドではお決まりのパターンだと。

しかし父親より明らかに娘のがかっこいい。それを際立たせるシーンもいくつかわざわざ作ってある。

自分の意見としては、これはこの映画に出てくる一つの下克上であると結論付けたい。

無茶な条件を受けながらも作品を作り上げる、ゾンビに人間が立ち向かう、監督に俳優が強く意見する、プロデューサーに監督が歯向かう、など。

あげたらきりがないが、子が親を動かすこともその一つであるのではないだろうか。

何てこじつけてみたが正直よくわからない。

上田監督の他の作品にもしかしたらヒントがあるかもしれないので気が向いたら見てみようかと思う。


ではこれで。

余裕をなくした日本人

頑張れ、という言葉を我々はよく口にする。

重要な何かしら、例えば試合であったり、はたまた商談であったり。様々な時に相手を励ます言葉として使う。

頑張れとは相手を励まし、応援することのできる言葉であるようだ。

だが、字をよく見て欲しい。頑張れとは、「頑」を「張れ」と書く。「頑」はかたくなと読め、頑固などの単語に使う。この場合の「張れ」は意地を張るなどの時の「張れ」であろう。


さて、頑なである状況を張り続けろなんて言葉、果たして本当に励ましの言葉であるのであろうか。むしろ無理し続けることを指す言葉なのではないのであろうか。

「頑張っている人に対して頑張れという言葉を使うな、もう頑張っているんだから」なんて言う人もいるが、それは暗に頑張ってしまっている時点でその人はもう無理をしているんだから無理をさせるなという意味を表しているようにもとれる。

「頑張れ」という言葉は励ましの言葉に全くふさわしくないようだ。


別に励ましだけではない。

今日からダイエット頑張ろう、資格取るために頑張ろうなどと言って三日坊主になってしまう人も少なくない。

そういう人は大体なぜ失敗したか考えないが、ひとつ簡単に言えることがある。

頑張ってしまっているのだ。
何事も頑張るから続かないのだ。

頑張らなきゃダイエットなんて出来ないと言う人もいるかもしれないが、それはそうだ。食の魅力に囚われた人が簡単にダイエットなんてできるわけがない。ただ、頑張っているって思わなければ良いだけなのである。

「私はダイエットを頑張ってはいない。ただこなしているだけである。造作もない。」なんて思い込んでおけば案外続くものである。


そういえば英語には頑張れとは正反対の言葉で同じタイミングで言う言葉があるのをきっと皆さんご存知であろう。

そう"Take it easy."である。

私はこの言葉が非常に好きである。

正念場に、気楽にやれよなんて言われても頑張ることが大好きな日本人たちには難しいかもしれないが、正念場を気楽に臨む度胸があれば、きっとその度胸はきっと正念場を乗りきる力になるはずだ。



今日は私情を挟みすぎた。

頑張ってるって思われるより余裕そうって思われた方がかっこいいと思うって文章だった。

それでは

慣れ

人間が生きる上で慣れると言うことがもっとも便利な機能であると思う。

何においてもそうだ。勉強、運動、恋愛など、すべてにおいて慣れることで効率的に、上手に進めることができる。

ただ、思い出してほしい。やり方がわからずに必死に試行錯誤して、効率など度外視で、遮二無二勉強や運動に取り組んでいた日々を。
連絡を取る度に緊張し、手を繋ぐ度に顔を赤らめ、抱き締める度に鼓動を速めていた日々を。

あの頃の、不安で押し潰されてしまいそうな気持ちの一方で、胸を踊らせていた感覚を私は久しく覚えていない。それはとても寂しいことに思える。

生き続けることによって様々なことを経験し、次に何が起こるかある程度は予想できるのは仕方ないものであろう。


だが、我々の人生はそんな平凡なものであろうか。経験したことや、それに類することが何度も起こる人生なのであろうか。いや、きっとそんなことはない。

「現実は小説より奇なり。」である。

文壇に立つ者たちが造り上げる傑作をも凌駕する人生を我々は送ることのできる可能性は十二分にある。

読んでいるだけで甘酸っぱい気持ちにさせる恋愛小説、展開が読めずに大どんでん返しが起こる推理小説、見たことも聴いたこともない世界で物語が繰り広げられる空想科学小説、それらに勝るとも劣らない生き方をすることなど難しいことではないはずである。


では、なぜ我々は慣れによって、色褪せた世界を生きるように感じてしまうのだろう。

それは結局、我々が安全牌を取り、経験してしまった、慣れてしまったような生き方を選びとってしまっているからに違いない。

おそらく当人がそちらを意図的に選びとっている訳ではない。無意識的に、経験したことがある方に意識が流れていってしまうのであろう。



誰かが言っていた。

『人生は重要な選択肢の連続である。』と。

初心を忘れないためにも我々は選択肢を見失わずにしっかりと選びとる必要があろう。



尻切れ蜻蛉の文章になってしまった。
ここまで読んでくれた方、いらっしゃったなら礼を述べたい。ありがとう。

よくわからない文章であったが、結局は初恋のような恋愛をもう一度やりたいということだ。その気持ちをただ小難しくこねくりまわしただけの文章であった。

ではまた、いつか。

はじめまして。

初めまして、私の名前は田中。

思い付いたこと、頭に浮かんだことをつらつらと書く場所が欲しかったためにブログを始めてた。

良かったら見ていって欲しい。

まあ今日はなにも思い付かなかったから次から書く。