deam_dream’s diary

文を書く

慣れ

人間が生きる上で慣れると言うことがもっとも便利な機能であると思う。

何においてもそうだ。勉強、運動、恋愛など、すべてにおいて慣れることで効率的に、上手に進めることができる。

ただ、思い出してほしい。やり方がわからずに必死に試行錯誤して、効率など度外視で、遮二無二勉強や運動に取り組んでいた日々を。
連絡を取る度に緊張し、手を繋ぐ度に顔を赤らめ、抱き締める度に鼓動を速めていた日々を。

あの頃の、不安で押し潰されてしまいそうな気持ちの一方で、胸を踊らせていた感覚を私は久しく覚えていない。それはとても寂しいことに思える。

生き続けることによって様々なことを経験し、次に何が起こるかある程度は予想できるのは仕方ないものであろう。


だが、我々の人生はそんな平凡なものであろうか。経験したことや、それに類することが何度も起こる人生なのであろうか。いや、きっとそんなことはない。

「現実は小説より奇なり。」である。

文壇に立つ者たちが造り上げる傑作をも凌駕する人生を我々は送ることのできる可能性は十二分にある。

読んでいるだけで甘酸っぱい気持ちにさせる恋愛小説、展開が読めずに大どんでん返しが起こる推理小説、見たことも聴いたこともない世界で物語が繰り広げられる空想科学小説、それらに勝るとも劣らない生き方をすることなど難しいことではないはずである。


では、なぜ我々は慣れによって、色褪せた世界を生きるように感じてしまうのだろう。

それは結局、我々が安全牌を取り、経験してしまった、慣れてしまったような生き方を選びとってしまっているからに違いない。

おそらく当人がそちらを意図的に選びとっている訳ではない。無意識的に、経験したことがある方に意識が流れていってしまうのであろう。



誰かが言っていた。

『人生は重要な選択肢の連続である。』と。

初心を忘れないためにも我々は選択肢を見失わずにしっかりと選びとる必要があろう。



尻切れ蜻蛉の文章になってしまった。
ここまで読んでくれた方、いらっしゃったなら礼を述べたい。ありがとう。

よくわからない文章であったが、結局は初恋のような恋愛をもう一度やりたいということだ。その気持ちをただ小難しくこねくりまわしただけの文章であった。

ではまた、いつか。